木村清すしざんまい社長の若い頃が凄い!伝説や名言は息子が伝承か?
2019/06/08
すしざんまい社長の木村清さん。
社長自らコマーシャルやメディアに顔を出しています。
そんな木村清社長は生粋の寿司職人というわけではありませんでした。
若い頃から数々の伝説や名言を残していますが、息子にそのすしざんまい魂を伝承できるのでしょうか?
今回はそんな木村清社長やすしざんまい魂について調べていきたいと思います。
それでは早速、見ていきましょう!
木村清のマグロへの想い
木村清社長の実家は寿司屋とは全く関係のなく、自転車販売店を営みながら兼業農家をされていました。
木村清社長は1952年4月19日に4人兄弟の長男として誕生します。
しかし、木村清社長が4歳の時に父親が他界してしまい、家計が一気に苦しくなりました。
木村清社長は長男として、家族を支えるために小学校低学年の頃からアルバイトに精を出すことになります。
母親はそんな息子たちに対して、気持ちまでは貧しくなってほしくないという気持ちがありました。
礼儀を重んじる母親は、生活が貧しくなったとはいえ、冠婚葬祭には必ず顔を出すという女性でした。
その際に出された料理を子供たちのために持ち帰り、家族4人でその少ない料理を分け合っていたそうです。
木村清社長がその中で一番印象に残っていたのが、「マグロ」だったのです。
当時から貴重だったマグロの刺身を口にした木村清社長は、将来は「母親に腹いっぱいになるまでマグロを食べさせたい」という気持ちを強く持つことになります。
母親思いの優しい気持ちを持ちながら、長男としての責任感も強く、家族の中では父親的な存在でもあったのでしょうね。
子供の頃に強く植え付けられた母親への想いを胸に、木村清社長はその後の人生を歩んでいくことになります。
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木村清のすしざんまい開店まで
木村清社長は中学卒後にパイロットになることに憧れ、航空自衛隊に入隊しました。
そして18歳で大検に合格し、本格的にパイロットの養成学生になる準備を整えましたが、訓練中の事故で目を怪我してしまい、パイロットへの道は断念することになります。
その後しばらくは自分の将来について悩みましたが、自衛隊退官後の次なる目標を「司法試験に合格する」ということを掲げ、中央大学法学部の通信課程に入学しました。
同時に日々の生活費を稼ぐためにセールスマンなどの職を転々とします。
そして、1974年に大洋漁業の子会社である「新洋商事」に入社することになります。
その頃には司法試験も断念し、仕事に集中するようになりました。
1979年には中央大学を卒業し、同時に「木村商店」を創業し、木村清社長は独立することになります。
木村商店での事業展開は幅広く、弁当屋、カラオケ店、レンタルビデオ店、魚の仕入れや卸しなど、その数は最大で80以上にもなりました。
1985年には会社の規模をさらに拡大するために「喜代村」を設立します。
しかし、バブル崩壊のあおりをまともに受けてしまった木村清社長は、全ての事業からの撤退を余儀なくされ、清算後に残った軍資金は300万円になってしまいました。
そこで木村清社長は残った軍資金を元手に、昔のつてなどに頼りながら、築地に「喜よ寿司」という寿司屋を開店します。
その後、2001年4月に日本初となる年中無休で24時間営業の「すしざんまい本店」を築地場外に開店しました。
年中無休で24時間営業ということで「すしざんまい」を世に広げたかに思えますが、品質の高さこそが「すしざんまい」の真骨頂となります。
品質には強いこだわりを持つ木村清社長は、特にマグロに対しては昔からの強い想いもあり、高品質ながら赤字覚悟で大盤振る舞いをしています。
マグロの初競りの際には木村清社長の名前が必ず出てきますよね。
単なる目立ちたがり屋のパフォーマンスだと思っていましたが、その背景には木村清社長の強い信条があったのです。
木村清社長はその後もすしざんまいの店舗数を増やしていくことになりました。
木村清社長の伝説
木村清社長の今までの生きざまのすべてが伝説となっています。
貧しい幼少期があったからこそ、木村清社長の精神は鍛えられ、同時に人を思いやるという気持ちも育まれました。
始めはパイロットを志し、次には司法試験に挑みます。
その両方に関しては夢を叶えることが出来ませんでしたが、それらの壁を乗り越え、自分で会社を創業するとともに、多くの人脈を構築していました。
それらの経験や挫折があり、「すしざんまい」を成功に導いています。
そんな木村清社長ですが、ソマリア沖の海賊を撲滅したという伝説が残っていました。
当時、ソマリアでは内戦が勃発し、ソマリア沖には国際海運を狙う海賊が出現して、国際社会に恐怖を与えていました。
そのソマリア沖というのが、キハダマグロの有名な漁場でもあったのです。
木村清社長は単純にそのキハダマグロを獲りに行くために海賊と直接交渉を行ったそうです。
しかも、海賊に漁の指導を行い、海賊が漁業で自立できるようになり、結果的に海賊がいなくなりました。
木村清社長によれば、海賊も同じ人間なのだから、話し合えば何とかなると考えたそうです。
腹の据わり方が凄すぎですよね。
確かに、海賊も同じ人間だとは思いますが・・・
海賊も木村清社長のオーラの凄さを感じ取り、心優しい考え方を理解したのでしょうね。
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木村清社長の名言
木村清社長の名言を集めてみました。
木村清社長だからこそ、という内容もありますが、人が社会で生きていくためには大切な内容ばかりです。
必要とされなければ、どんな組織でも人は生き残れない。「人の役に立つ」という視点を意識して働くことも大事。
実行が伴わない「考え」なんて、「考えない」ことと同じ。
「壁に何度もぶつかる経験」を積んで、壁を感じた時には「前に進めるチャンス」だと発想を転換できるようになったら、しめたもの。
今の私があるのは、挫折しても腐らなかったから。うまくいかなくても、人をうらまず、今できることを一生懸命する。成功するためには、これが一番大切なこと。
諦めたらそこで終わり。壁にぶつかるということは、先に進める兆候。もう一歩だけ前に進んでみればいい。
「人に喜んでもらうため」という姿勢を持つと、いい結果につながる。
人が生きていく上で、何らかの壁や選択があるとは思います。
しかし、木村清社長ほどの波乱万丈な人生というのも、普通の人ではなかなか無いのではないでしょうか。
とはいえ、今後、世の中がどのように変わっていくかは分からないため、将来設計には木村清社長の名言を心に留めておく必要がありそうです。
そしてその木村清イズムを息子である専務が伝承していくのでしょうね。
相当のプレッシャーではあると思いますが、息子は幼い頃から木村清社長の背中を見て育ってるため、すしざんまい魂を自然と受け入れているに違いありません。
おわりに
木村清社長のことを深く知ると、すしざんまいをここまで成長させることが出来たことが少し分かったような気がします。
しかしそこには、木村清社長の持って生まれた資質が大きかったということも事実です。
自分が同じ環境で育ったとしても、そこから這い上がるほどの生命力を持っていないことを実感させられました。
そんな木村清社長の跡継ぎとなる息子もその帝王学を学び、立派な人物なのでしょうね。
今後も「すしざんまい」に行くことがあると思いますが、今度からは、木村清イズムをかみしめつつ、マグロを味わいたいと思います。
最後まで読んでいただき、誠にありがとうございます!
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